映画「ヒア アフター」

hereafter

この先のクリント・イーストウッド映画は見逃すまいと「グラン・トリノ」を見て以来思い、今回も大いに期待して映画館へと向かった。イーストウッドの映画には人生が詰まっているのだ。涙を流さずにはいられないが、その涙は自分が力強く生きるための糧になる。「グラン・トリノ」はどうしようもなく悲しい映画だったし、二度と見たくない傑作映画だったが、命懸けで生きる潔さから学ぶことは多かった気がする。「インビクタス」も生きるための糧を充分に与えてくれる作品だった。未だに“ I am the master of my fate. I am the captain of my soul. ”の一説は強烈に記憶に残っている。

そして、今作「ヒア アフター」だ。 まず、映画の色調はかなり抑えられている。彩度を下げたトーンが映画全体のイメージを方向付けているのがわかる。映画は悲しみの連続だ。津波に襲われるフランス人ジャーナリスト。双子の兄を事故で亡くすイギリス人少年。霊視できる能力を呪いだと思い悩むアメリカ人。それぞれが悩みながら日々過ごしている。
この3人があるとき、同じ場所で偶然に出会うのだが、私はそこからの展開を実はかなり期待して見てしまった。死とは何か、生きるとはどういうことか。我々は死をどうとらえなくてはならないのか。死を乗り越えることはできるのか。よりよく生きるためにどうしたらよいのか。人生を進むというのはなんと大変なことか、と。そんなことの答えとなるヒントが映画の中に埋もれているのではないかと考えながら見た。
しかし、残念なことにこの中には十分なヒントは無かった。いや、自分には感じることができなかった。ラストでは確かにハッピーエンドが待っているが、イーストウッドにはもっと別次元のエンディングを期待せずにはいられない。言いたいことは理解できるのだが、なんというか、しっくりこない感じだ。
結局、死生観について話をするということは「グローバルな共通認識」というものはないのかもしれない。その国、その土地の風土、文化、歴史、宗教、道徳、価値観などという環境が違う限り感じることも千差万別だろう。だから仮にイーストウッド的には満足のいく映画であっても私たちもそう感じるとは限らないということか。
もっとよりよく生きるための「宗教ではない」考えを求めて止まないが、そう簡単には答えは見つからない。

http://wwws.warnerbros.co.jp/hereafter/index.html

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